●発癌物質を農薬としてはならないのか。

日本はいまだに発癌性化合物を農薬としてはならないという素人考えの罷り通っている不思議な国である。発癌性に種類のあることや具体的な発癌性試験の方法が理解できないことがその原因であろうが,問題はそれによって本当に安全な農薬の登録が得られないことにある。

【99/12/18作成】

30%過酸化水素水,すなわち,オキシドールは以前,農薬として使用されていた。イネ籾の種子消毒用である。バクテリアを殺すことができ,種籾に用いてもコメに残留することはまず考えられず,しかも使用者に対する安全性も極めて高いため,理想的な農薬であった。オキシドールが現在も医療用消毒剤として市販されており,食品添加物としても用いられていることはいうまでもない。たとえ,手についても多少なら飲んでも何の問題もない。

現在,この理想的な種子消毒剤は使われていない。発癌性があるとの理由からである。以前,過酸化水素水の発癌性が問題となり小麦粉の漂白などの食品添加物としての使用が一部事実上制限されることとなった時期に,農薬としての登録も抹消された。

オキシドールは確かに発癌性試験で陽性となる。過酸化水素水を大量に経口投与すれば,十二指腸に癌が発生する。しかし,それは大量を投与した場合に限られる。おそらく,この発癌性はオキシドールが十二指腸の上皮細胞を酸化により痛めることが直接の原因であろう。後述の牛肉の発癌性と似ている。

私は,オキシドールのような理想的な殺菌剤の農薬登録が発癌性を理由として削除されるような日本は安全性評価の後進国だと確信してる。


炭酸水素ナトリウム,つまり重曹(重炭酸曹達,NaHCO3)は現在殺菌剤の活性成分として農薬登録が得られている。重曹には野菜のうどん粉病に対し治療効果がある。

重曹の農薬登録が得られたとき,私は自分の耳を疑った。重曹のような安全性の高い化合物の農薬登録など日本で得られるはずがないと考えていたからである。通常,農薬登録の際に要求されるデータを当局に提出すれば,重曹が発癌性試験で陽性となることは明らかであり,登録を得られるはずはないのである。

ラットでの慢性毒性/発癌性併合試験では通常混餌投与が採用される。餌に一定量の被検物質を混ぜてほぼ一生(2年間)投与し続けたのち剖検するのである。毒性の低い物質の場合,最高濃度に相当する2500 mg/kg/dayが投与される。これは50 kgの成人なら毎日125 gに相当する。毎日125 gなら食塩でも十分癌になる。

重曹は明らかに発癌性試験で陽性となる。しかし,重曹では胃酸過多などの治療目的でヒトに投与された事例が多く,評価可能なヒトに対する投与例が多くあるという特殊事情により,発癌性試験が免除され農薬登録が得られたと仄聞している。これによりヒトに対する毒性が評価されているとみなされたからである。

しかし,重曹はあくまでも特異な例外である。本邦では依然として同様の発癌物質の農薬登録が不可能であることに変わりはない。


牛肉が発癌物質であることは誰でも知っている。米国人は日本人に比較して大腸癌になりやすいが,その原因は,牛肉を食べすぎるためであることが疫学的に確かめられている。普通の食品だからたとえ食べて癌になっても発癌性物質などではないなどという御仁もいるかもしれないが,食べて癌になるから発癌性物質なのである。

最近の詳しい研究の結果,牛肉を多量に食べると消化酵素であるリパーゼが腸内に放出され,腸が高濃度のリパーゼに長い時間曝されて腸の内側が傷むことがその直接の原因であることが明らかにされている。消化酵素は多少とも自分の腸をも消化し傷めるのである。

この癌発現の作用機序を考えれば明らかなように,牛肉の発癌性にドーズリスポンスはない。つまり,米国人平均の1/10しか牛肉を食べない人が,牛肉を食べたために大腸癌に罹る確率は1/10よりかなり低くなり,ほとんど無視できる確率となる。本当の発癌物質は高濃度のリパーゼなのである。

では,牛肉のような発癌性のある化合物は農薬となりうるか。牛肉のような発癌性は,脂肪であれば多かれ少なかれ持っている性質である。昆虫が交尾の際に雌が雄を引き寄せるためにフェロモンとよばれる化学物質を放出していることは良く知られている。その成分には脂肪酸エステルなどがよくある。昆虫ホルモンにも脂肪酸エステルがある。これらは油の仲間であるから専門家の常識でもかなり安全な化合物であり,しかも超微量で効果があるため環境に与える負荷も少ない。その誘導体を農薬にすれば有用であろう。しかしながら,油の仲間の悲しさで,多量にネズミに投与すれば牛肉と同様に種々の病理変化をおこす。

一般に,大量の被検物質を投与すれば動物はそれを分解するために反応する。肝臓が肥大し分解酵素系が活性化するのである。発癌性試験ではこれらによる二次的な作用による発癌かどうか十分に考察されねばならない。

後進国である日本では牛肉のような発癌性を有する化合物も農薬となりえない。1日0.1ミリグラムの牛肉しか食べない人が,その牛肉で大腸癌に罹ることはあまり心配しなくて良いと思うのだが。


一般に,素人は「発癌性試験で陽性の化合物」を「発癌性のある化合物」と言い換える。しかし,ラットに1日,1 kgあたり2,500 mg(体重50 kgのヒトなら1日125 g)食べさせて肝臓に腫大ができた化合物と,同じく1 mg食べさせて癌の増加の認められなかった化合物はどちらが安全性が高いだろうか。それなら,後者も2,500 mg食べさせろというかもしれない。しかし,ラットが死ぬような高用量を投与することはできない。死なないまでも,急性毒性の所見があれば最大無作用量のデータにならない。つまり,急性毒性の高い物質ほど発癌性試験では陽性となりにくくなるのである。これが,後進国である日本で「安全な」農薬の登録の得られない理由の1つである。

一般のみなさんは発癌性というと遺伝子に損傷障害を起こす化合物と考える。ときには,エイムス試験のような変異原性試験で陽性の化合物が発癌性試験で陰性であるはずがないなどという素人考えすら見受けられる。発癌性については種々の分類が提案されているが,最低でも以下の3つに大別される。
●遺伝子に作用する発癌物質
●癌化しやすい条件をつくる発癌物質
●発癌プロモーター

重要な点は閾値が設定できるかどうかである。宮本純之博士らが日本農薬学会誌(13,295-311,1988)にわかりやすい総説を載せているので参照されるとよい。とにかく,発癌物質を摂取することと癌になることには大きな差がある。「サルノコシカケから抽出された物質をラットに静注したら扁平上皮癌の縮退が認められた。」のと「サルノコシカケを食べていると癌にならない。」との差に近い。

かつて米国には連邦食品医薬品化粧品法にデラニー条項という条文があった。動物試験で発がん性が見られた農薬は一切禁止という時代遅れの法律である。安全性評価の先進国である米国においてさえこの条文が削除されたのは1996年であった。日本が改まるのはいつになるのだろう。

 
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