●オンコル私史外伝,番外編
ポカリスエットと播磨部長

【11/07/06作成】

2009年9月2日にBSジャパン「ルビコンの決断」ポカリスエットの開発物語演義の放送があった。副題は,「まずい」を「うまい」に変えた?ポカリスエット大逆転のドラマである。「ルビコンの決断」は徳島県の地上波では放送されていないのだが,この回のみ2009年9月20日に四国放送(徳島県だけが放送エリア)で放送された。

私は,この番組でポカリスエット販売の最大の功労者(商品開発は播磨氏だろうが)の名前がやっとわかるかと期待したのだが,その人物名はおろか,その偉大な業績についてすら一切触れられることはなかった。その人物とは,「アルカリイオン飲料」というキャッチコピーを考えた御仁である。この似非科学用語が,アルカリ性食品は健康に良いという怪しげな俗説を信じる一般大衆に受け,「健康飲料」なら多少不味くても仕方がないとして飲まれた。ポカリスエット販売直後には,雨後の筍のごとく「アルカリイオン飲料」が販売されたが,その中に「美味しくなったアルカリイオン飲料(アイソトニック飲料だったかもしれない)」をキャッチコピーにした製品もあったと記憶している。確かに,ナトリウムやカリウムはアルカリ金属で,そのイオンはアルカリイオンだから,化学的には食塩水でもアルカリイオン飲料と称することができる。少なくとも,「マイナスイオン」レベルのひどい似非科学用語ではない。

とにかく,この最大の功労者は会社に厚遇されたのだろうか。私のようにオンコルの開発で会社に多大な利益をもたらしたため退職に追い込まれていないだろうか。

放送は,大塚製薬(株)徳島工場長(当時)の大塚明彦氏(のち,社長,その後,「紆余曲折」を経て大塚HD会長)がオロナミンCの工場内で,これに続く新製品を開発しようと決意する場面から始まる。その後,部屋に戻った大塚氏を技術部長の播磨六郎氏が訪れ,リンゲル液を見せ「飲む点滴液」というアイデアを話し,これが開発の発端とされる。

最初の誤りは,大塚製薬(株)徳島工場内にオロナミンCの工場はないことである。オロナミンCの工場はフェンスを挟んで隣接する大塚化学(株)徳島工場内にある。ちなみに,以前は両工場間の行き来が自由であったため,大塚製薬の社員の多くが大塚化学の食堂に昼食に来ていた。大塚化学の食堂の昼食は大塚製薬に比べ旨かったためである。これは,「味の天才」播磨六郎氏の影響かもしれない。

また,オロナミンCに続く製品を開発したいといっていたが,オロナミンCボンカレー大塚化学(当時は大塚化学薬品(株))の開発した製品で,大塚製薬は全く関与していない。ボンカレーの販売は1964年,オロナミンCの販売は1965年で,大塚製薬(株)大塚製薬工場の販売子会社として設立されたのが1964年,研究部門をつくったのは1971年である。

また,当時,点滴に用いる補液,輸液は(株)大塚製薬工場の製品で,大塚製薬はその販売を行っていたにすぎない。その後,紆余曲折を経て,現在は両社ともに大塚ホールディングス(株)の完全子会社となっている。

開発の最初から最後まで技術部長として大活躍した「味の天才」播磨六郎氏の肩書も興味深い。播磨六郎技術部長は大塚化学の技術部長であり,大塚化学技術部に入社した時の私の上司である。その後,大塚食品に異動し,会長職で亡くなられたが,大塚製薬に所属したことは一度もない。播磨氏は大塚化学の社員であったからオロナミンCの味を決め「味の天才」となったのである。

播磨氏の登場場面でのテロップはほとんど「技術部長」となっていたが,眉山(徳島市市街地を見下ろす位置にある)に登り,頂上で試作品の飲み比べをする場面では,堂々と「大塚製薬 技術部長」となっていた。番組の最後に大塚明彦氏,高市晶久氏の近況が述べられたが,播磨六郎氏については全く言及されなかった。すでに亡くなられていたが,不自然に感じられた。

たしかに,番組の構成上,播磨氏を大塚化学の技術部長とすると話が複雑になり,省略した方が合理的かもしれない。しかし,番組での播磨六郎氏の大活躍をみると,ポカリスエットは大塚化学で開発中のものを大塚製薬が掠奪したものかもしれない。

私は播磨部長と話したことは数回だけである。なにぶん,彼の麾下の大塚化学鳴門工場技術部にはボンカレーやプラスチックの重合開始剤や香料や化学品や農薬や品質管理などのグループがあり,時には,アースレッドや防虫タンスまで扱っており,食品部門以外の者には話す機会がなかった。しかし,少し話しただけで,彼の仁徳人間性はうかがえた。特に,技術部の古参の社員との接し方には感銘を受けた。

(株)大塚製薬工場は,元々は鳴門の塩田の中で食塩の副産物の「にがり」からカリ製品等を製造する無機化学薬品製造会社で,大正舎密精工(株)の下請け会社であった。会社が,製薬に軸足を移す時,元請け会社を母体に新設分割の形で本来の部門を分離したのが大塚化学薬品(株)である。その際,初代社長大塚武三郎と「にがり」を運んでいた古参の社員大塚化学に異動した。その社員の多くは自宅から鳴門工場まで徒歩で通勤できる場所に住む農家の次男,三男で,学歴はなかったが,大塚グループの礎を築いたという自負(と株)だけはあった。彼らは忘年会で「おい播磨,元気でやっとるか」などというのだが,播磨部長はごく自然に接していた。とにかく,ドラマで播磨氏を演じた役者よりはるかにかっこよかった。

この開発物語は,「演義(史実をもとに創作された物語)」であるから大塚明彦氏が柑橘系飲料を入れ苦みを抑えることを偶然見つけたことになっている。しかし,これはかなり怪しい。それは,オロナミンCの開発物語を知る者なら誰でも思いつくことである。これを含め,大塚明彦氏には自らの業績を喧伝する癖があるように思われる。私が大塚化学に入社した頃は(現在については言及しない),「上手く行けば自分の手柄,失敗すれば部下の責任」と考える御仁が多くいた。ちなみに,大塚製薬の強心剤アーキンZの製品名は社長の「あきひこ」に由来すると聞いている。

追記【11/07/12】
番組では播磨部長のもとで実際の開発に尽力していたのは高市晶久氏となっていた。私は入社当時,高市氏に会った記憶があるのだが,明確ではなかった。そこで古文書を渉猟してみると昭和52年の新入社員研修テキストの講師の中に,当時,大塚化学の技術部主任研究員であった高市晶久氏の名前を見つけた。たしか,当時はボンカレーのレトルトパウチで有名技術部次長三尾谷秀明氏の部下であったと記憶している。同じ技術部でも鳴門と徳島の間の交流は少ないため,私の記憶も薄れていたのである。三尾谷氏は退職まで大塚化学に所属していたが,高市氏はいつ大塚製薬に異動したのだろう。時間があるときに「大塚社内報」を調べてみよう。

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